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今日は、終戦記念日ではない。

配信時刻:2021-08-15 10:20:00

今日は日本にとって大切な日、『終戦記念日』


76年前の今日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わった日であるということは多くの人が知るところです。

 

しかし、この日は終戦でも何でもない、この日以降も日本の領土で苛烈な戦いがあったことを多くの日本人が知りません。

 

しかも、戦った相手は本来戦う理由のない、中立条約を交わしていたソ連。

 

ソ連は日本に二発目の原爆が投下された8月9日付けで一方的に条約を破棄して当時の満州に侵攻、大虐殺を行なったのち、本来の戦争が終わった8月15日の数日後、北の領土を脅かします。

 

その時、何があったのか。少し長いですからどうか時間を取ってじっくりとお読みください。

 

WEB歴史街道より、ノンフィクション作家早坂隆さんのコラムより転載させて頂きます。


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日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。

 

この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。

 

一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。

 

しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。

 

日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。

 

現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。

 

 

【運命の、昭和20年8月17日深夜】

 

「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。

 

負け戦を語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことについても、しっかりと語り継いでほしい……」

 

占守島は今もなお、ロシアに実効支配されており、その存在すら学校の授業でも教えられることはありません。

 

占守島は千島列島の北東端に位置し、戦争当時は日本の領土でした。なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、南樺太も日本領として認められていました。

 

昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる占守島には、約8,000の日本陸海軍将兵がいたとされます。ソ連と国境を接していますが、「日ソ中立条約」を結んでいたため、あくまでもアメリカ軍への備えです。

 

しかし――8月17日深夜、占守島に攻め込んできたのは、相互不可侵を約していたはずのソ連軍でした。ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」したのです。

 

ソ連軍は8月9日にすでに満洲に侵攻していましたが、そこで行なわれたのは戦闘行為ですらありません。殺人、略奪、家屋侵入、そして強姦……。彼らは同じような手法で、千島列島の他、南樺太までも攻略しようと企みました。

 

【北海道までを狙うソ連の野望】

 

発端は、同年2月のヤルタ密約にまで遡ります。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが会談を行ない、ソ連が対日参戦を条件に千島列島や南樺太を獲得することを秘密協定で認めたのです。

 

しかし、スターリンはやがて、北海道の北半分の領有までも主張し始めました。対するアメリカはこれを拒否。後の冷戦構造の萌芽ですが、遺憾にも真っ先に巻き込まれたのが日本でした。

 

ソ連は終戦近しと見るや、千島列島や南樺太への侵攻を開始。どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。あのスターリンならば、千島列島、北海道を獲った後、勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも窺ったであろうことは想像に難くありません。

 

結果、日本は戦後のドイツや朝鮮半島と同じような分断国家になっていたかもしれないのです。なお、日本側は当初、そんなソ連に和平の仲介役を期待していました。そんな史実も、あの戦争の一側面として知っておくべきでしょう。

 

 

【故郷に帰る夢を脇に置いて】


ソ連兵が凄まじい艦砲射撃の援護の下、占守島北端の竹田浜に殺到したのは、8月18日午前1時過ぎでした。ソ連軍は8,000を超えていたといいますが、発見した偵察部隊は当初、どこの軍隊か分からず、アメリカ軍だと思った者が大多数でした。

 

 <十八日は戦闘行動停止の最終日であり、「戦争と平和」の交替の日であるべきであった。(略)然るに何事ぞ。十八日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵攻すると同様の、「武力的奇襲行動」を開始したのであった>

 

報告を受けた樋口中将は、当時の心境を『遺稿集』にこう記しています。彼は「斯る『不法行動』は許さるべきではない」と続けており、すぐさま第五方面軍麾下の将兵に「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と命じました。

 

当時、日本軍大本営は「18日午後4時」を自衛目的の戦闘の最終日時と指示していましたが、樋口はソ連軍の日本上陸を水際で留めなければ、その後にどんな惨劇が起こりかねないかを充分に理解していたのです。

 

絶対に占守島でソ連軍を食い止めなければならない。そう考えていたのは、樋口だけではありませんでした。

 

「故郷に帰ったら、何をしようか」

 

8月15日の玉音放送後、第91師団の指揮下にあった占守島の将兵たちは、酒を酌み交わしながら談笑していたといいます。懐かしい故郷に帰り、家族に再会できることを心待ちにしていた者も少なくなかったでしょう。しかし彼らは、手が届きかけていた安穏な暮らしを脇に置き、再び武器を手に取りました。

 

 

【精鋭「士魂部隊」】

占守島の日本軍の中核が、精鋭として知られた戦車第11連隊です。

 

彼らは「十一」という漢数字と「士」という文字の連想から、「士魂部隊」と呼ばれました。とはいえ、終戦の報せと武装解除命令で、ガソリンも半分ほどは地中に埋めてしまい、車輌も長時間の暖機運転が必要で、出撃までに時間を要する状況でした。前日には「戦車を海に捨てようか」と話していたような状況ですから、無理もありません。

 

それでも、兵士たちは寸刻を争う中、懸命に出撃準備を進めました。そして戦車第11連隊は18日午前5時30分に出撃し、ソ連軍を次々と撃破。「精鋭・士魂部隊」の名に恥じぬ奮闘を続け、戦局を逆転させるのです。

 

中には10代の少年兵もおり、爆弾を抱いて敵陣に突っ込んだ兵士もいました。自らの命を犠牲にしてでも、日本に暮らす人たちを、大切な家族を守る。その想いのもと、彼らは軍人としての本分をあくまで全うしようとしたのです。

 

戦車第11連隊において、池田末男連隊長の存在は大きなものでした。次のような話があります。

 

池田は下着の洗濯や入浴など身の回りのことはすべて自分で行ない、恐縮する当番兵に「お前たちは私ではなく、国に仕えているのだ」と語りました。学徒兵には「貴様たちは、得た知識を国のために活かすのが使命だ。自分たち軍人とは立場が違う」と語ったといいます。

 

【ソ連軍が驚嘆した戦いぶり】

池田は18日早朝の出撃に際して、


「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかない」

 

と訓示を述べました。自分たちが「民族の防波堤になる」とも語り掛けたそうです。心の底から信頼を寄せる池田の言葉に、奮い立たない将兵はいませんでした。

 

池田は占守島の戦いで常に先頭に立ち、戦車の上に跨って指揮を執り、最期は燃えさかる戦車で敵軍の中央部隊に大打撃を与え散華しました。

 

しかし、戦車第11連隊の面々は連隊長を失ってもなお勇戦を続け、その結果、ソ連軍は「簡単に抜ける」と思っていた占守島で追い詰められ、日本軍の精強ぶりに驚きました。

 

ソ連軍が侵攻を開始してから4日後の8月22日、両軍は停戦協定を締結。

 

樋口や池田、そして占守島の日本軍将兵すべての覚悟と奮戦が、ソ連軍の侵攻を見事に撥ね返したのです。死傷者は、日本軍800ほどに対して、ソ連軍は2,300を超えました。

 

私はこれまで、先の大戦で戦場に立たれた元将兵の方々に話を伺ってきましたが、多くの方が

 

「戦争に対する怨みはある。ただ、私たちは日本人としての誇りをもって戦い、自分たちの国を守った自負もある」

 

といった主旨の言葉を、時には涙を零しながら語ってくれました。占守島の将兵も、まさしく同じ想いであったでしょう。

 


【知られざる樺太の悲劇】

さて、もう1つ忘れてはならないのが、ソ連軍が北方で不法侵攻を仕掛けた地は占守島だけではなかったという事実です。

 

8月11日、ソ連軍は占守島に先立ち、日本領南樺太への侵攻を開始しました。樺太は千島列島以上に民間人が多く、戦時中は40万人ほどが居住していたと記録されています。

日本軍守備隊は民間人を避難させながらソ連軍と戦いましたが、残念ながら約4,000人もの無辜の市民が犠牲となりました。

 

樺太では、「女性たちの集団自決」という痛ましい出来事も起こりました。真岡郵便電信局の電話交換手のうち、9名が局内で服毒自殺を遂げたのです。映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の題材にもなっていますが、昭和49年(1974)の映画公開にあたっては、各方面から圧力がかかって上映館が縮小されたともいわれ、残念ながら多くの人々の目に触れる機会がなく、今に至るまで史実が充分に知られているとはいえません。


この真岡郵便局の話以上に語られてこなかったのが、樺太・恵須取町で起きた大平炭鉱病院看護婦の集団自決です。

 

8月16日、恵須取にソ連軍の空襲が始まり、被害者が次々と病院に運び込まれると「戦争は終わったはずなのに」と思いながらも、目の前の救急活動に追われたと看護婦の片山寿美さん(戦後、鳴海に改姓)は私に語りました。

 

迫りくるソ連軍を前に、看護婦たちは「最後まで、自分たちの職務を全うしましょう」と、ギリギリまで看護活動を続けたといいます。そして逃げ遅れた彼女たちは、「ソ連兵に見つかったら何をされるか分からない」と考え、自ら命を絶つ決断を下すのです。手首を切った片山さんは幸い朦朧としたところで救助されましたが、23名のうち6名が命を落としました。

 

なにも、自決することはなかったのではないか。私たちが戦後の物差しで、そう語ることは簡単です。しかし、彼女たちの脳裡には1920年、満洲の日本人居留民がロシア人を主とする共産パルチザンに筆舌に尽くしがたいほどの酷い凌辱を受けた事件が強い印象としてありました(尼港事件)。

 

ソ連兵の「実態」をよく聞いて育った彼女たちが下した選択を、私たちが軽々に論ずることはできないでしょう。

 

※    ※    ※

 

占守島で戦った将兵や、樺太の女性たちに通じるもの。それは、与えられた職務に誇りを持ち、自分のためではなく人のために全うしたということに他なりません。そして、占守島に「日本の防波堤」となった者たちがいたからこそ、私たちは今の日本の国土で、平和な暮らしを享受できているのです。

 

依然、解決を見ない北方領土問題はもちろん、現代の日本の安全保障を考察する上でも、占守島の戦いは極めて重要な意味を持つのです。

 

昭和20年8月、北方の島々で何が起きたのか。沖縄戦などと比べて戦後、あまりにも伝えられてきませんでした。「忘れられた戦場」の事実を知り、将兵たちのありのままの姿を「史実」として語り継ぐことは、決して軍国主義でも、戦争の美化でもありません。

 

占守島で戦った日本人に感謝の念を持って謙虚に頭を垂れ、次世代へと歴史を語り継ぐことこそが、「戦後70年」を経て「ポスト戦後70年」を迎えた現在、私たちに必要な態度ではないでしょうか。(談)


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私の祖父も、満州で終戦を迎え、その後ソ連に強制連行されて3年3か月、マイナス40度の酷寒の地獄の中で捕虜としての生活を送りました。

 

今日は、終戦記念日ではなく、米国による『敗戦決定日』。

 

そしてこの日以降も命を散華されながら日本を守り、私たちに未来を繋いで下さった英霊の方々の存在に感謝の思いをお伝えするべく、

 

本日は私のオンラインサロンの方々に靖国神社をご案内させて頂き、正式参拝して参ります。

 

どうか素晴らしい一日を。

 

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